#日本战败投降纪念日#我有话要说

#日本战败投降纪念日#我有话要说

因为“忘记历史,就意味着背叛!”所以我们历史课老师的“责任”显得格外重大。在这特殊的今天,你是否想过怎么去看待历史,能不能像我们看待自己的过去那样,对待一个国家一个民族的历史?历史老师的使命是不是仅仅让我们记住历史,而不至于成为“背叛者”,是不是记住了19xx年日本发动侵华战争,死伤数,19xx年8月15日日本战败投降,就是忠诚?

今天想和大家谈一下我的看法。仅代表个人观点。

首先,从人类道德的制高点俯视芸芸众生,我们认为,任何强国就算没义务去帮助一个堕落的邻国,也不应该落井下石,发动战争,为扩张自己的领土和势力影响力。因此我们每每谈到战争,无疑意见会很统一地将矛头指向侵略者,谴责他们惨无人道的行为,憎恨他们施行烧抢掠,大屠杀。即便这些终究成为了历史,我们的后辈子孙却仍然怀揣着消极的情感(讨厌甚至憎恨日本人),记住历史事件的同时,先辈们还教会去“感同身受”,因此我们还记住了情感取向,就是要讨厌、痛恨日本侵略者,拒绝日本的一切,抵制日货。我们都知道“海纳百川”的道理,却仍然狭隘在抵制“精华”,不弃“糟粕”般的耿耿于怀。

谁都不要站在人类道德的制高点去指责别人,和平是我们追求的理想世界,然而迄今为止有些地方战争依然在上演,战争的存在,就有它存在的合理。我们国度秉持“人不犯我我不犯人”的原则“和平”地与他国外交,就好比站在道德的制高点,而历史给了我们情感和态

度,对于侵略者,我们都要指责,痛恨,不然我们就相当于默认自己不是善良的人。这样,真的好吗?

那些年,成吉思汗的铁蹄踏遍整个亚欧大陆,有战争的地方死伤是难免的,对冤死在战争上的别国百姓,我们内疚了吗愧疚了吗?没有!那为何在如今中日问题上,我们非得让日本人承认他们先辈的暴行,不然继续选择痛恨日本人。知道吗?我们年轻人对待日本表现得愤青不是我们很爱国,而是我们过于“感同身受”那些无辜的生命,抵制日货是我们宣泄的方式。

如果想真正地放下先辈们战争遗留下的仇恨,或许首先需要离开道德的制高点,记住客观的历史事件,活在当下。背负过去,谈何冰释前嫌谈何改善中日关系?!背负过去,怎么大步流星向前共商合作发展之计?!

那我们怎么活在当下呢?我在此表达的仅代表个人的看法! 首先,必须认识到战争存在即是合理的,人性的弱点谁都有,发动战争,就想通过武力满足贪欲。记住历史的同时,选择中立看待中日战争,如果真的有了既成的情感取向,选择痛恨发动战争的那些统治者,但是不要将这种恨投射到现代人身上,除非他们现在还伤害着中国人民。对于“弱肉强食”的生物进化,我“强”没人敢欺负,他“弱”我求双赢搞合作发展(中国人也没有那么高大无私不求回报帮助他国)

摆正了态度,剩下的是行动。在科教兴国的道路上,我们年轻一辈儿在奋斗,就是在爱国,就是在保护国家。

 

第二篇:日本的纪念日大全--10月份

デザ?ンの日(10.1)

10月1日はデザ?ンの日です。

これは19xx年10月1日に、通産省にデザ?ン奨励審議会が設置されてデザ?ン

振興政策が行われるようになったことを記念したものです。

一口にデザ?ンといっても色々な分野があります。

フ?ッション?デザ?ン、工業デザ?ン、意匠デザ?ン、.....

その周辺には?ラストレーター、?ンテリ?コーデ?ネーター、 カラーコーデ?ネーター、建築設計士、などなどといった人たちも 大勢います。

デザ?ナーというのは、なかなか食っていくのが大変な商売であると いいます。若い内はいい??デ?がどんどん出てくるのですが、その 時期は評価が低いので報酬も低い。

そのうち有名になってくると、いい報酬をもらえるようになりますが 今度は??デ?が枯渇してしまう人が多い。更には報酬が高いがため に予算の十分あるところの仕事しかもらえない。高い故に回避されて しまう訳です。春はまだ遠いのかも知れません。

登山の日(10.3)

10月3日は語呂合わせで「登山の日」です。日本?ルパ?ンガ?ド協会が 19xx年に制定しました。

近年は深田久弥の「日本百名山」(新潮文庫)などの影響もあり、山に登る人が 増えていますが、何にでもある問題として、人が増えると勉強不足やマナーの 悪い人なども大量発生して、顰蹙を買ったり他人に迷惑を掛けたりするケース もあります。こういうことには充分注意したいものです。

安全面から言えば、低い山だからといった甘く見ずに最低限の装備をしておく ことや決して単独行動はしないことが必須です。またそもそも自分の実力と経験

を冷静に判断して無謀な挑戦はしないこと、疲れたら休むこと、万一道に迷った

らむやみに歩きまわらず体力を温存すること、なども重要でしょう。またマナー

の面から言えば、人とすれ違ったり追い抜く時は挨拶をすること、ゴミは各自で

持ち帰ること、草花をむやみに踏み荒らしたり、抜いて持ち帰ったりしないこと

なども最低限のことでしょう。

【最低限装備に入れておきたいもの】

ラジオ(スピーカー付き。音を出しておくことが熊の忌避に効果がある) 予定日数+数日分の食糧(日帰り予定でも最低1日分)と飲料水

着替え?雨具?タオル?消毒薬?GPS?地図?方位磁針?飴玉?携帯電話

あと細かい問題は登山関係のガ?ドサ?トに多数書いてありますので、そういう

のを見て参考にしましょう。けっこう意見の分かれる問題もあるのですが、その

付近は信頼できる人に直接相談してみましょう。各々の意見の根拠を聞いて自分

で判断するしかありません。

いわしの日(10.4)

10月4日は「いわし」の日。これは104を「いわし」と読んだものです。

?ワシは生物学的には、ニシン目ニシン科の「真(ま)いわし」と「潤目 (うるめ)いわし」、ニシン目カタクチ?ワシ科の「片口(かたくち)?ワ シ」とに分類されます。

「真いわし」は体側に黒い斑点が幾つかあるのが特徴で、その斑点から「七 つ星」とも呼ばれます。他にヒラゴ、オヒラとも呼ばれます。

「潤目いわし」は目が透明な脂で覆われていて目が潤んで見える、というこ とからこの名前があります。

「片口いわし」は真いわし?潤目いわしより少し細身です。上顎が下顎より 前方に突き出していることからこの名前があります。背中が黒いことから背 黒いわしとも呼ばれます。またシコ、ヒシコとも呼ばれます。ヨーロッパや 南米では?ンチョビーと呼ばれます。

?ンチョビーは塩漬けや油づけにしたものをピザをはじめとする?タリ?料 理で使います。またペルーでは家畜の飼料を育てる肥料として使います。19

73年のエルニーニョの時は片口いわしの漁獲量が激減して、飼料が不足し、 結果?メリカの大豆の相場が高騰したため、日本の豆腐が突然3~4倍値上 がりするという「西風が吹けば桶屋が儲かる」のような現象が起きました。

いわしは漢字では「鰯」。これは国字で、痛みやすい魚であることから作ら れたもののようです。中国では「鰛」あるいは{魚是}といった字を使うよう です。よく獲れる魚であり、おいしいことから古くから獲られていましたが、 痛みやすいためいわゆる高貴な人たちの口にはなかなか入らなかったようで す。しかし紫式部などはいわしの日干しを好んで食べていたそうです。

めざし

「目刺し」の名の通り、中くらいのいわしを数匹、目のところで串や紐で刺 して干物にしたものです。網やオーブントースターで焼くとおいしいですね。

しらす(ちりめん)

しらす(白子)ともちりめん(縮緬)ともいいますが、いわしの稚魚を塩水でゆ でたもので、半乾きの状態、または完全に干した状態で、ご飯やおひたしな どに掛けて食べます。

たたみいわし

しらすを真水で洗い、型にはめ、畳に使う?草の上で干したものです。湘南 のものが有名です。

天使の日(10.4)

10月4日は語呂合わせで「天使の日」とのことです。

これは感触の優しさをセールスポ?ントとした「天使のブラ」がヒットした 女性下着メーカートリンプが、この商品の販売枚数1000万枚達成(1994発売)を

記念して20xx年に制定したものです。

トリンプは最近、?ウターに響かない「Tシャツブラ」でも静かなブームを 呼びおこしましたし、20xx年夏には軽やかな付け心地をセールスポ?ントと した「恋するブラ」も出して好評を博しています。

天使という概念は唯一神を信仰するキリスト教??スラム教などにおける概念 で、その唯一神以外の聖なる霊的存在をいいます。詳しいことはこちらでその うち書きます。八百萬(やおよろず)の神様のいる日本や古代ギリシャなどだ

と全部神様のうちに分類されてしまうところなのですが。

天使にもいろいろなランクがあって上の方には熾天使とか権天使などといった

すごいおかたたちがいます。人と関わるのはぐっと下の8ランク目の大天使で 聖母マリ?に受胎告知をしたガブリエルとか、太陽の天使ミカエルなどといった

ところは有名。

狭義の天使というのはこの天使のランクの一番下の9ランク目の存在で、名前 が付いている天使はないと思います。一般にはぷにぷにした赤ちゃんみたいな 姿で、頭の上に輪をのせている姿が日本ではよく連想されますね。もっとも あの姿はローマの古き愛の神キューピッド(ギリシャ神話のエロス、?ンドの カーマ、日本では愛染明王と呼ぶ!!)の姿がちょっと転用されているのですが。

トリンプの「天使のブラ」のネーミングは、やはりあの天使のぷにぷに感から の連想と、付けた心地が天に浮かんでいるように快適である、といったところ があるのでしょうか。

投資の日(10.4)

10月4日は語呂合わせで「投資の日」です。日本証券業協会が定めました。

現在は長引く不況を背景とした超低金利時代。定期預金の金利は都市銀行の 大口定期でも1年ものが0.03%で、1億円預けていても年間3万円しか利子が 付かないというとんでもない状態です(税引き後2万4千円)。この状況の中で 景気が上向き掛けて株価が上昇する気配を見せていることと、来年4月1日か らペ?オフが解禁されて銀行が倒産した場合、預金は1人1000万円までしか 保護されなくなることから、銀行に置いていた資金を投資に回す人たちが

急増しています。これがまた株式市場の活性化→株価上昇につながっています。

ここで投資をするといっても、大きく分けて3種類の形態があります。

(1)株式 (2)公社債 (3)投資信託 です。これ以外の分野は素人は 手を出すべきではありません。

(1)株式は株式会社の資本金を出資した証書で、会社が利益を出すと証書1枚 あたり何円という形で「配当」を出すことで価値が生じ、証券市場で売買が なされるものです。会社の業績が上がれば価値が高まり、業績が下がれば価値 は下がりますが、会社の先行きを見越した思惑的な売買がなされるため、株価 の上がり下がりの状況自体がその会社の実力の予測状況を表します。そのため 株式市場をウォッチングすることは、日本の企業の状況を把握するのに良い面 もあります。

(2)公社債とは、公共債と社債を合わせていったもので、国や自治体、大会社 などが発行した債券を購入したり、また市場で売買するものです。代表的な ものは国が発行する国債で、先月販売された個人向け国債などは変動金利で ひじょうに金利が良いため、今まで投資に興味の無かった人たちもこれを期に 証券会社に口座を作って購入したりした人も多数いるようです。

(3)投資信託は最も一般向けの金融商品です。株式のように毎日株価の上下を 眺めたりすることなく、お金を出しさえすれば、それをもとに信託会社の専任 の運営者が株式?債権?短期金融商品など様々なものに投資して利益を出して くれます。銀行の定期預金に比べればリスクが高く最悪元本割れの危険もあり ますが、一般には定期預金よりは良い率の収益を得られることが多いです。

また最近はデ?トレードをする人たちも随分増えました。特に市場の開いている

昼間にパソコンの前に張り付いておくことのできる主婦のデ?トレーダーは現在

かなり急増しているようです。

普通株式投資というのは、株を安くなっている時に買って高くなっている時に売る

か(キャピタル?ゲ?ン)、ずっと保持していて配当や株主優待などを狙うか (?ンカムゲ?ン)なのですが、デ?トレードというのは株価の変動の激しい株

を1日の内で安い時間帯に買い、高い時間帯に売って、その1日だけの価格変動

で利益を出そうというものです。例えば最近投機的な売買がされている某お菓子屋

さんの株では、1日に50円くらいの値動きがある場合があります。これを1万株単位

(金額としては250万円くらい)で上手に売買できれば1日で50万円の利益を上げる

ことができます。またデ?トレードは買った株はその日のうちに売り切るので、 所持している株券が会社の倒産などで紙屑になるような危険がなく、そのため 普通の取引より安全、などと主張する人もいますが。。。。

1日で50万円儲けられる日があるということは失敗すると1日で50万円失う場合

もあるということですから、ほとんどギャンブルのようなものです。あまり お勧めできるものではありません。実際デ?トレードで利益を出している人は デ?トレーダーの中でも1割に満たないといいます。

時刻表の日(10.5)

10月5日は時刻表の日です。私はてっきり語呂合わせかと思っていたのですが

改めて確認すると、日本初の本格的時刻表である『汽車汽船旅行案内』の第1号

が出版されたのが明治27年(1894)の10月5日であることから定められたものだ

そうです。

日本の時刻表は明治5年(1872)に新橋~横浜間に鉄道が開通して以来、制作され

ていたのですが、各地の鉄道や船?馬車などの時刻表が各社からバラバラに出て

いるため、遠くまで旅行しようという人は現地での交通機関の時刻が分からず 不便をしていました。そこで?ギリスに全国の交通機関の時刻表を1冊にまと めた本が出版されていることを知った慶応大学の福沢諭吉が、その慶応出身の 手塚猛昌(1894-?)が庚寅新誌社という出版社を経営していたことから、彼に こういう本を作らないかと提案。実現したものです。この本には日本各地の鉄道、

定期運行されている馬車、汽船、などの時刻表が網羅されている上に様々な 紀行文なども載っていて、旅のガ?ドという雰囲気であったそうです。

大きさはB6くらいで第1号は本文65ページ?広告31ページ。広告には交通機関や

銀行、慶應義塾などのほかに、旅にお勧めの品として護身用の銃などの広告も あったとのこと。巻頭に折りたたみ式の路線図が綴じ込まれていて、価格は6銭

だったとのことですが、この時代に全国の時刻表の最新状態を確認して編集し、 それを月刊で刊行する作業はひじょうに大変だったのではないかと思われます。

『汽車汽船旅行案内』は漢数字で時刻が記されていましたが19xx年には横書き

で?ラビ?数字を使用した「旅のつれづれ」という時刻表が出版され、19xx年

には外国人旅行者向けに鉄道院編纂の「TRAIN SERVICE」という日本語英文併記

の時刻表も出ています。

一方、大正年間に業務用の時刻表はかなり使い手の良い形に発展していたので すがそれを見た一般の客から「それが欲しい」という声が高まり、その声に応えて

19xx年4月、日本旅行文化協会から鉄道省編纂「汽車時間表附汽船自動車発着表」

(通称「汽車時間表」,244ページ,定価50銭)が刊行されました。これが現在でも

鉄道マニ?にウケが良い「JTB時刻表」の創刊号です。

戦後、日本全国の国鉄の駅にはこの「交通公社の時刻表」が置かれていたのです

が、国鉄が19xx年4月に分割民営化された時、JR側とJTB側との株式の所有に関す

る話し合いがこじれ、その結果、JR側は交通公社の時刻表を駅から撤去。代わり

に鉄道弘済会(キオスクなどを運営している会社)の子会社であった弘済出版社

(現?交通新聞社)の「大時刻表」をJR公認として「JR時刻表」の名前に改訂し

て、駅に常備するようにしました。なお、この時刻表は民営化の1ヶ月前に改名

されたため19xx年3月号だけは「JNR時刻表」の名前で出て、私もこの号を2年前

まで保存していました。

日本の鉄道はひじょうに正確に運行されているため、それを背景に日本には 時刻表マニ?というものが存在しています。私もかつてはそのひとりでJTB時刻表

であれば必要な路線の載っているページを数秒以内に開くことができましたし、

どこからどこへ行くのに何時の汽車に乗ればいいか、というのもかなり高速に調べ

ることができました。JTB時刻表が時刻大改訂の度に主宰する「日本一周早周り」

のコンテストにも何度か参加したことがあります。

しかしこういう技術も、今は「乗り換え案内」のようなソフトの登場でほとんど

無用になってしまいました。この分野ではなんといってもヴ?ル研究所が19xx年

2月に発売した「駅すぱあと」が草分けです。最初は単に乗り換え経路を案内する

だけだったのが、やがて時刻表そのものをソフト内に取り込んで、最短時間など

を求めることができるようになりました。私も最初は「駅すぱあと」派だったの

ですが、ある時マシンを乗り換えて新しいマシンに再度ソフトを?ンストール

しなおした時に、自分のユーザidの証書がどうしても見あたらず、結局使用を

断念して困っていたところに、乗り換え案内の体験版を入手して使い始めたら 幾つかの経路で駅すばあとより良い連絡方法を計算してくれたので、すっかり そちらに乗り換えてしまいました。

なおそれ以来、私はソフトのuseridは全部電子的に記録するようにしています。

これ以外にもこの時期いくつか自分のidが分からずに使えなくなってしまった

ソフトがあります。

国際協力の日(10.6)

10月6日は国際協力の日です。19xx年に制定されました。

これは19xx年10月6日に日本が東南?ジ?途上国への技術協力のための国際 組織である「コロンボ計画」に参加したことにちなむものです。

■ODA

Official Development Assistance.政府開発援助。日本政府からの公的な援 助ですが、概して「金だけ出して」とか「お金の使い方がおかしい」と不評 です。もちろん、実際問題としてはお金がないと困りますので、不満ながら も十分役に立っているものです。

■NGO

Non Governmental Organization.非政府組織。民間の主としてボランテ?? や企業などによって運営されている国際協力組織のことです。日本からも多 くの人たちがNGOに参加して時には身の危険をおかしてまで世界各地で働 いています。NGOのある意味での総元締めがUNESCOでしょう。

■JICA

Japan International Cooperation Agency.国際協力事業団。特殊法人として 設立されており、海外への人的?技術的援助をおこなっています。2年前タン ザニ?で強盗に襲われ亡くなった花岡理英子さんはJICAから臨床検査技師と して派遣されていました。

木の日(10.8)

10月8日は「木の日」です。これは「十」と「八」を組み合わせると「木」になるから、ということで、19xx年に日本木材青壮年団体連合会が定めました。

日本の森林面積は19xx年現在24.6万平方キロ。全国土面積の約65%、そしてその約58%が民有林です。

戦後の日本の木材開発事情を大まかに見てみると、戦後まもない頃はとにかく材木が足りないということで聖地のように扱われていた処女林からの切り出しが奨励され、成長の早い外来種の杉が植えられました。その傾向は昭和40年代まで続きますが、オ?ルショックによる社会思想の大転換を経て、逆に森林保護と木材?紙の節約が叫ばれるようになりました。そして昭和60年代頃になると、その戦後間もない頃に植えた成長の早い杉がその強い繁殖力を反映して大量のスギ花粉を出し、全国に大量の花粉症患者を生み出すことになりました。

現在では古新聞?古雑誌の回収が定着し、再生紙を利用したト?レットペーパーやコピー用紙などが普及してきています。しかしここ数年回収分が再生紙市場の規模をはるかに越える集まり方をし、古紙の相場が暴落して、古紙回収業を廃業する人たちが相次ぎ、結果的に古紙の回収をしてもらえない問題が発生しています。流通構造の早急な見直しが必要でしょう。

袋の日(10.8)

10月8日は足袋の日です。

日本足袋工業会が19xx年に制定しました。七五三?お正月?成人の日、とい った和服を着て足袋を履く機会が多くなるシーズンを前に、末広がりで縁起 のいい8日ということで定めたものです。

足袋の起源についてはよく分からないようですが、平安時代に源流ができた ようです。山を歩くことの多い猟師たちが熊や鹿や猿などの毛皮で作った、 股割れ付きの袋を足に履いていたとされ、これが起源になったという説、又 その時期に貴族たちが沓(くつ)を履くとき、股割れの無い、布製の袋を履 いていたのが起源になったという説もあります。

平安時代の貴族が履いていたものは下沓(しとうず)と呼ばれていますが、 むしろ現代のソックスのようなもののようです。ひもで縛って留めるように なっていました。

中世には一般の人々にまで普及したようですが、その頃には皮製?ひもつき? 股割れあり、という形式が確立しています。そういう意味では足袋の原型が 固まったのは室町末期といった方がいいのかも知れません。

これが明暦の大火(1657,例の振袖火事のことです)のあと、皮の値段が急騰し この時に代替材料として木綿が使われるようになりました。そして木綿では ひも留めがきついため、代わってボタン留めの手法が生まれ、現在の足袋の 形にほぼなったようです。また現在の足袋は通常小鉤(こはぜ)と呼ばれる 金具で留めますが、この形式は江戸時代末期に生まれて明治以降普及したも ののようです。

足袋の語源については、こういう語源問題を論じるときには必ず出てくる例 の『倭名抄』には『町人は鹿皮を以て半靴を為る。名付けて単皮と日う』と あり、単皮(たんび)が転じて『たび』になったとしています。が、旅をす る時に履くから「たび」と呼んだという俗説も捨てがたいものがあります。 また、足袋の形が鼻に似ている(??)ということから「多鼻」で「たび」にな ったという説もあります。

なお、現在日本全国の足袋の生産量の80%は埼玉県の行田市で生産されて います。ここは良質の木綿の産地であることから、江戸時代に藩主が下級武 士に内職を奨励して、生産が始まったと言われています。

入れ歯の日(10.8)

10月8日は語呂合わせで「入れ歯の日」です。

野生の動物は歯を失ってしまうと物が食べられなくなり死ぬしかありません が、人間は食べ物を工夫して歯が無くても食べられる食物の調理法を開発す るとともに、入れ歯を発明して、不足するまたは完全に失った歯を補うこと を考えました。入れ歯の歴史は5000年近くあるとも言われています。

さて現代の歯科治療では、虫歯や歯槽膿漏などで傷ついたり失われた歯を補修 したり補ったりするために、下記のような技術を使用しています。

(1)?ンレー 軽度の虫歯などに適用するもので、削れて穴があいてしまった 部分に金属(金銀パラジウムの合金)を詰めます。

(2)クラウン 冠です。進行が大きくて?ンレーだけでは安定しない場合に、 保護のために上から金属の冠をかぶせます。前歯の場合は違和感が 無いようにレジン(プラスチック)製の白い冠をかぶせたりします。

(3)ブリッジ 歯が1本無くなってしまった場合に、前後の歯に連結させて 人工の歯を設置するものです。前後の歯にはクラウンを掛ける形に なります。補われた歯は歯茎に対して浮いています。

(4)差し歯 歯根だけになってしまった歯に芯を埋め込んで、そこに人工 の歯を接着するものです。一体感があり使いやすいですし、入れ歯 と違って簡単に外れたりはしません。

(5)?ンプラント 最近できるようになったもので、歯根も失われている場合 に、歯茎に人口の歯根を埋め込んで、そこに差し歯するものです。 今まで入れ歯しかないと思っていた人たちをたくさん救っています。

(6)入れ歯 歯茎が弱くて?ンプラントが困難な場合は現在でも入れ歯をする ことになります。1本や数本単位で作る部分入れ歯と、全ての歯が 失われている場合におこなう総入れ歯とがあります。

入れ歯の場合、その歯を固定する床を何で作るかという問題があります。 現存する日本最古(これが世界最古でもあるらしい)の入れ歯は室町時代の ものですが、木製の床を使用しています。一方西洋では象牙、陶器などを床 に使用していましたが、1856年にゴム床の精密な製法が開発され、入れ歯は それ以前と比べて遙かに快適な装着感のあるものとなりました。日本にも このゴム製の床は1874年に紹介され、急速に普及します。この材料はやがて ゴムから?クリル、レジンと変化してきており、現在の主流はそういうプラ スチック製の床です。

なお人工の歯そのものの素材は古代には象牙や牛の骨などが使われており、 後に陶器なども出てきて、現在では金属やセラミックなどが主流になって

います。メタルボンドといって金属にセラミックコーテ?ングしたものや ハ?ブリッドといってブラスチックとセラミックを混合した素材もあります。

なお床の方ですが、プラスチック製の床は炎症を起こしにくく軽くて良い面も あるのですが、口腔内の形と完全に一致させるのが困難であるため、微妙な 違和感と戦う必要があります。これに対して19xx年頃からチタンなどの金属を

使用した床が一部で使われ始め普及し始めています。金属の場合可塑性がある ので口腔に完全に馴染ませることができて、入れ歯安定剤を使う必要がありま せん。更には熱伝導率が良いので熱さ?冷たさが伝わり、食事がより快適に なります。但しこの金属床については、まだ保険外診療となっています。

しかし基本は「歯は大事な臓器」。やはりこういうものにお世話にならない ように、日々のメンテをしっかりやるようにしたいものです。

目の愛護デー(10.10)

一 一

〇 〇

という図形を書いて、10月10日は目の愛護デーです。先日は歯でしたが、目も

年齢が高くなると衰えるもののひとつで、こういうところを如何にしっかり保つ

かというのが、老後の生活の質(QOL)を考える上では重要でしょう。しかし

目の問題は何も年配の人だけではありません。

現代人はかなり目を酷使しています。特に現在の高校入試?大学入試の制度は 大量に目を痛める学生を生み出しており、私なども中学の2年の頃までは両眼 とも視力1.2あったのですが高校入試で左目が0.8くらいまで落ち、その後自己

訓練で何とか回復させたものの、大学入試で両眼とも0.6くらいまで落ちて、 その後はどうにも回復せず、そのままです。

また最近はテレビゲーム?パソコンゲームなどの普及が目の使いすぎをする 人たちを増やしています。特にブラウン管型のパソコンを長時間使うことは ドラ???などの原因にもなります。

テレビやゲームなどはせめて2時間くらいおきに休憩を入れましょう。休日に 1日中ビデオを見ていたり、ゲームを丸一日していたりしたら、目はたまりま せん。連休ですが、テレビ画面をずっと見ているのではなく、少し外に出て

身体を動かしたり、そろそろ華麗になってき始めた夜空の星をながめたりして みましょう。

体育の日(10.10)

今年(1999)は体育の日が10月10日固定になる最後の年です。

来年(2000)からは体育の日は10月の第2月曜になりますので、いつになるか 不定です。

この日は、東京オリンピックを記念して定められたものです。東京オリンピ ックは、昭和39年(1964)10月10日に開幕したのですが、これはこの日が東京

地方の晴れの特異日であったから選ばれたものです。

国会は、この日が晴れの特異日で学校などで運動会を予定するのに最適の日 であるということを忘れて、単に休みを増やしたいということで、この日を 移動祝日にしてしまいました。

東京オリンピックはまさに日本にとって「戦後」の終わりを告げるものでし た。この?ベントをシンボルとするこの時代を境に、日本は貧しい国から豊 かな国へと変身し、戦後の復興は完全に完了。高度経済成長時代のまっただ 中に飛び込みます。

国はこの東京オリンピックに向けて主会場となる代々木スタジ?ムなどの体 育施設はもちろん、東海道新幹線?羽田モノレールの開業、名神高速?首都 高速などの高速道路や地下鉄の整備、などなどといった社会?ンフラに膨大 な予算を投入しました。また、文化面ではルーブル美術館の門外不出の宝 「ミロのビーナス」(ミロス島で発見された古代の?フロデ?ーテ像)を東 京?京都に迎えて特別展を開くなどして国民の間に衣食住を越える価値観を 提示します。そして肝心の選手強化費も空前の20億円もの巨費が投じられ、 この?ジ?で初めてのオリンピックの祭典は開かれたのです。

この結果東洋の魔女と言われることになる女子バレーが見事優秀を果たした ほか、日本は柔道?レスリング?重量挙げでも大量に金メダルを獲得、サッ カーでも釜本や川淵の活躍で強豪?ルゼンチンを破り決勝トーナメント進出、 マラソンでも円谷が3位の快走を見せてくれました。この時のマラソンの優 勝者は?ベベです。

こういった様子は全国にテレビで報道され、これを見るために裕福な家庭で はテレビを買うところが相次ぎました。そして当時は近所で集まってこの放 送を夢中になって見たのです。

引っ越しの日(10.13)

10月13日は「引っ越しの日」です。全国引っ越し専門協同組合連合会が定め たもので、明治元年のこの日、天皇が江戸城に入ったことにちなんでいます。

大政奉還がなったものの、江戸にはまだまだ幕府を日本の中心と考える人た ちが大勢いましたし、諸外国は日本は江戸と京都をそれぞれ首都とする2つ の国家に分裂するであろうと見ていました。その事態を打開する一番の策は 天皇が江戸城に入場してその主になることでした。

このため天皇は明治元年7月17日江戸を東京と改める詔を出し、9月20日に京

都を出発。この日江戸に到着し江戸城に入城。ここを東京城と改名しました。

しかし天皇の東京移動には京都市民が猛反発します。そのため天皇は12月い ったん京都に戻り、そこで一条勝子(結婚にあたって美子と改名)と婚姻の儀 をあげます。しかし天皇に早く東京に戻ってもらわないと新政府の事務が滞 るため、天皇は3月再度東京へ行き、皇后も半年後に東京に移りました。

このとき京都市民に向けて天皇は「東京は未開の地なので教化のため、度々 東京に行幸するが、決して京都を見捨てる訳ではない」との声明を出しまし た。そして京都市民に配慮して明確な遷都の詔は出さず「天皇が東京にいる 間は政府機能もそちらに置く」というなんとも曖昧な宣言をしたのです。

そのため、現在でも正式には日本の首都は実は京都であり、天皇が東京に 「滞在」している間だけ東京に「臨時移動」していることになっています。

さて庶民の話に戻って、引っ越しは以前は地域共同体で助け合うものでした。 しかし19xx年代以降この共同体が崩壊してきたのに合わせて、?ート引っ越 しセンター(19xx年創業), ヤマト運輸(19xx年創立だが宅急便の開始は19xx年)

などの大手運送業者が引っ越しのサポートを開始。今ではすっかり引っ越し は業者のものになってきました。

さつまいもの日(10.13)

10月13日はさつまいもの日です。

これはさつもいものことを「栗(九里)より(四里)うまい十三里」ということ で「十三里」と呼ぶことから、シーズンである10月の13日が選ばれたも のです。川越いも友の会が制定しました。

さつまいもはヒルガオ科の植物で、中米原産です。一般に「薩摩芋」の名前 で通っていますが、「唐芋」「琉球芋」の名前もあります。

やせた土地でも育つことから、江戸時代に青木昆陽が飢饉対策として普及さ せました。なお、さつまいものラ?バル?じゃがいもはナスビ科で南米原産 です。

さつまいもは、?モご飯にしてもおいしいですし、天ぷらにすると最高です し、焼き?モ、特に石焼き?モも非常においしくなります。また大学?モも いいですし、すりつぶして、ス?ートポテトほか、デザートにしてもおいし いものができます。

最近は、普通の黄色いさつまいもだけでなく、紅?モや紫?モなどにも人気 があるようです。

鉄道の日(10.14)

10月14日は「鉄道の日」です。これは1872年(明治5年)日本初の鉄道が新橋

-横浜間に開通したことを記念するものです。19xx年に定められた古い記念 日です。

「汽笛一声新橋を」という鉄道唱歌にも歌われているこの新橋-横浜間の鉄 道は?ギリス人技師の指導により明治3年から建設が始まったもので、全長 29kmで汽車の速度は時速32kmでした。なお、この新橋はのちの汐留貨物駅、 横浜は現桜木町駅です。

このあと1874年大阪-神戸間、1877年京都-大阪間、と各地で鉄道が開業、 1889年にはとうとう新橋-神戸間が開通します。そして、各地で鉄道が開業 していきますが、政府は19xx年鉄道国有法を制定。これらの鉄道を全て国営 化しました。

そしてこの国営鉄道は戦後もそのままの体制で日本国有鉄道として継続、莫 大な赤字を蓄積して19xx年民営分割されJRになります。赤字を蓄積した最 大の原因は政治家の介入により不採算路線を強引に開発したことでしょう。 不採算路線をその地域の開発のために政治的配慮で開業させるのであれば、 当然その赤字はそもそも行政府が補填するべきものだったかも知れません。

JRの線路は時々不自然なカーブを描いていることがありますが、それはだ いたい、その曲がった先の所に有力政治家が住んでいたりしたもののようで す。また、某県には新幹線の駅が5個もありますが、これはこの県から実力

派の総理大臣が複数出たためであるといわれています。

世界食料デー(10.16)

10月16日は世界食糧デー(World Food Day)です。これは19xx年10月16日に国連食糧農業機関(FAO - Food and Agriculture Organization)が設立されたことを記念するものです。

今年はFAOではセネガルのダカールで世界食糧デーを記念するチャリテ?ー?コンサート Telefood-98 を開き、収益は全て世界の農地開発のために使用されます。

まだ第二次世界対戦中の19xx年、?メリカ?バージニ?州のホットスプリングに世界44ヶ国の政府の代表が集まり、飢餓を防止するための食糧生産と農業開発のことについて話し合いました。そして翌年FAOを設立するに至ります。

現在世界の人口の3分の1は飢餓寸前の状態にあるといわれます。近いところでは北朝鮮でも大量の餓死者が出ています。これに対して多くの団体が食糧を支援することによってこれに対処しようとしていますが、外から食糧を運び込むことは、目の前の餓死者を救済する力はあっても所詮は応急措置に過ぎません。

長期的対策としては、やはり農地を整備し、その国の食糧生産を技術的経済的に確立させていき、食糧を安定生産できるようにすることが大事です。

この難しい仕事をしているのがFAOです。FAOはまた食品添加物?遺伝子組替野菜などで揺れる食糧の安全性の問題についても討議しています。 現在FAOの本部はローマにあり、1500人の専任スタッフが日夜精力的に活動をしています。FAO日本事務所は横浜(パシフ?コ横浜内)にあります。

カラオケ文化の日(10.17)

これは全国カラオケ事業者協会が定めたもので、同会が19xx年10月17日設立

されたことを記念するものです。この協会はカラオケ機器の販売やレンタル などをしている業者で構成されています。

「カラオケ」とは「空(から)」と「オーケストラ」から合成された言葉で、 オーケストラ演奏のみで、歌が空っぽであることを表します。

音楽の世界ではこういうものは一般に古くから歌や楽器の個人練習用に作ら れ「マ?ナス?ワン」と呼ばれていましたが、19xx年代に、通常のレコード から電気的に歌を消去してしまう装置が開発され、「カラオケ」の愛称が生 まれて、歌のマ?ナス?ワンは普及していきます。

設備的にも最初の段階ではテープであったのが、その内VHDやレーザーデ ?スクが使われるようになって、映像付きが当たり前になり、現在は通信回 線を使いMIDIでリ?ルタ?ム配信するシステムや、有効期限付きのデー タをダウンロードして使うシステムが盛んに使用されており、新曲がすぐに カラオケで歌えるようになってきました。

またカラオケを歌う場所としても、初期の段階では旅館やスナックなどの設 備でしたが、その後安くなってきたことから家庭でも装備する人たちが出て きて、19xx年代になると、郊外にカラオケ専門のカラオケ?ボックスが登場、 そして最近ではジャングルとか異国の王宮などをモチーフにした色々な雰囲 気の部屋が用意されたカラオケ?ボックスが都心に多く作られるようになり ました。

統計の日(10.18)

日本の公的な近代産業統計の始まりは明治3年9月24日に太政官布告により集計

作業が開始された「府県物産表」と呼ばれるものです。この明治3年9月24日が

太陽暦に換算すると同年10月18日になるため、この日を「統計の日」とするこ

とが、19xx年7月3日閣議により決定されました。

府県物産表は各府県ごとに米麦などの農産物、海産物や木材、鉱業生産物など 29種類の産業製品について、その生産高を調査して集計したものです。このよ

うな表を作ることは国力の把握、そして産業育成政策の立案の基礎となるもの で、国の統治をするのにとても基本的なことです。

江戸時代までは各藩の経済力を米の生産高で表し「○万石」という言い方をし ていたわけですが、日本が近代国家に成長する過程においては米だけでなく、 様々な生産物の調査が必要になったのでした。

統計の歴史はそのまま「まつりごと」の歴史とも言えるでしょう。日本書紀は 第10代?崇神天皇を「初めて国を肇(しら)した天皇」と書いていますが、それ

はこの時代に初めて人口調査を行い、賦役の割当てを行ったからであるとして います。西洋でも人口調査はローマ帝国時代などにはかなり組織的に行われて いたことが知られていますし、聖書の「民数記」などにも各氏族ごとに人口調 査が行われたことが記されています。

もっとも近代以前の統計では、統計を正確に出すための技術的?政治的手法が 不足していた面が多く、しばしば調査官は賄賂などで簡単に調査結果を改変し ていたようですし、日本でも古代の人口調査で異様に女性の比率が高い事など は昔の調査手法の限界を示す例でもあるのでしょう。

近代の統計調査が古代のものに比べて高い精度を持つようになったのは、調査 が一般に国の普通の政治系統からは離れた機関によって行われるようになった

ことと匿名性の保証によって人々が正確な申告をしてくれるようになったこと、

また調査に携わる人員を大量に確保し、きちんと教育して短期間に国の各地に 送り出し調査させて戻ってこさせるだけの統制力と通信?交通手段が発達した ことなどがあげられるでしょう。

また調査した数字をまとめるための統計学の理論も近代大きく発達し、統計 分布、平均と標準偏差、などといった数理的な把握が容易になったことは国家 規模の大きな統計の活用の幅も広げていきました。そしてその理論は逆にこの

ような大きな数の処理を迅速におこなうための技術の発展も促しました。

電子計算機のトップメーカーIBMもルーツをたどると19世紀の終わり頃に ?メリカの中央統計局が国勢調査の結果をまとめるための機械を募ったのに 発明家の創業者が、それまで編み機の図柄制御に使用されていたパンチカード を数理処理に使うことを思いついて自動計算機械を製作し応募して採用された

のが発端です。世界で最初にこのような技法を発達させた国が今世界の支配者 となっているのも、ある意味では当然でしょう。

冷凍食品の日(10.18)

10月18日は冷凍食品の日です。

これは19xx年に日本冷凍食品協会が定めたものです。冷凍の「とお」にちな んで10月。そして冷凍食品の品質を維持するための温度-18度にちなんで制定

されました。(苦しい制定の仕方と思うのは私だけ?)

人類の文明の発展はある側面では食糧の保存法を軸にしていたということも できるかも知れません。

最初に考えられた保存法は恐らくは乾燥させることではないかと思います。 気候などの条件が良ければ、特定の肉や植物は乾燥させることで長持ちし ます。逆に生の時より味わい深くなるケースもありました。

その次に出てきたのが多分塩漬けにする方法。これは海の近くで文化を作 った人が考えたのかも知れません。

そして冷凍する方法は、寒い地方で暮らしを営んだ人たちによって考えら れたものでしょう。肉や魚が雪や氷の中に埋めておくといつまでも新鮮な 状態で食べられることに、北方の民は神の恵みを感じたことでしょう。

温帯が国土の大部分を占める日本では、この冷凍保存法は非常に限られた 人々だけが使っていたものと思われます。近代以降では、高野豆腐のよう な乾燥食品、漬け物や塩魚などの塩漬け食品、そして次には近代文明の成 果である空気遮断法を使用した缶詰が先行し、冷凍食品が普及するのは、 結局冷蔵庫が普及する昭和40年代以降ということになります。

またこの現代の冷凍の技術は、後に乾燥法に応用されて「フリーズドラ?」 を産み出します。急速冷凍してから水分を飛ばすこの方法は味があまり落 ちないことから、?ンスタント?コーヒーや?ンスタント?ラーメンなど

で使用されており、現代の日本都市文明においてはなくてはならないもの になっています。

現在冷凍食品として供給されているものは多々あります。恐らくお弁当を 作って会社や学校に持って行っている人の大半は、おかずの半分以上が

冷凍食品なのではないかと思います。ハンバーグ、スパゲテ?、コロッケ、 トンカツ、オムレツ、などといった完成品、ミックス?ベジ、和風野菜 ミックス、コーンなどといった素材、またたこ焼き?鯛焼きなどのおやつ まで、冷凍食品はほんとうに私たちの生活に密着しています。

リサ?クルの日(10.20)

10月20日は「ひとまわりふたまわり」ということで「リサ?クルの日」です。

リサ?クルの推進は環境問題とリンクしています。リサ?クルが普及すれば ゴミが減ることにより、ゴミ捨て場の問題やダ?オキシンの問題が軽減され るとともに、資源の消費を抑えることで自然破壊をより小さくすることがで きます。

現在有効なリサ?クルができるものとして回収?再生のシステムができてい るもの、できつつあるものには次のようなものがあります。

紙????再生紙としてコピー用紙やト?レットペーパーなどに利用されま す。ただ、近年みんなのリサ?クル意識の高まりによる古紙の供給量の 増加と、円高による輸入パルプの値下がりで、再生紙業界は悲惨な状態 になっています。国の組織的な支援が欲しい所です。

?ルミ缶????ルミ素材として利用します。再生は大変ですが、ボーキサ ?トから加工するよりは随分安くつきます。一般に再生?ルミニウムは 耐久性をそんなに必要としない部品に使用されます。現在国内産の自動 車にはかなりの再生?ルミニウムが使用されているようです。

スチール缶??鉄素材として利用します。

発泡スチロール???プラスチック素材として利用します。

ペットボトル????繊維製品や固形燃料?石油製品などに再利用します。 ポリエステルに再生してブラウスやワ?シャツの素材にしたり、ビデオ テープやフロッピーの磁性体を塗るベースにしたり、また再度ジュース の容器に再生したりしているケースもあるようです。

ペットとはPET(ポリエチレンテレフタレート)で、塩素を含みません

ので、燃やしてもダ?オキシンを発生しません。しかし、そもそも、と ても再利用しやすい素材なので、ゴミに混ぜて燃やすのはもったいない です。現在全国のペットボトルの回収率は多分2~3%。早急に回収? 再利用のシステムを構築して欲しいところです。

なお、PETボトルに似たPVCボトルは半分以上が塩素なのでダ?オ キシンを発生します。

ガラス瓶??酒瓶?醤油瓶などは洗浄してそのまま再利用しています。ワ? ンの瓶は沈殿物が洗浄では取れないので、溶かさないと使えません。

あかりの日(10.21)

10月21日は「あかりの日」です。これは発明王エジソンが1879年に実用性の

高い白熱電球を発明したことにちなんだものです。

人類の歴史は火の制御とともに始まります。火は熱と光という2つのものを 人間に与えてくれました。火によって人類は天敵から身を守るとともに、食 べ物を加熱調理することを覚えました。

そして火は夜間も人類が活動できる礎を与えてくれました。最初は松明(た いまつ)の形で。後には燈明(とうみょう)?蝋燭(ろうそく)?ランプなどの 形で。

しかしほんの120年前まで、光を出すには必ず火を燃やさなければなりませ んでした。それを分離した革命家がエジソンであったということもできるで しょう。

もっとも電球を発明したのはエジソンではありません。

1879年2月、?ギリスのスワンが炭素繊条を使った白熱電球を発明しました。 それ以前にも火を使わないあかりとしては1821年に発明された?ーク灯もあ りました。(1878年3月25日に日本で最初に?ーク灯がともったのが、電気 記念日になっていますね)

しかし?ーク灯は点灯するのに技術が必要な上、電極の消耗が激しいので絶 えず電極間の距離を調整してやる必要がありましたし、スワンの白熱電球は 寿命に問題がありました。

エジソンは寿命の長い白熱電球を作るべく、フ?ラメントの素材として色々 なものを試したあげく、一番使えそうもない素材であった「竹」が実は最も

長くもつことを発見しました。この時彼が使った竹は日本の京都産のもので あったそうです。

(その頃、日本の東芝もフ?ラメントの材料を探していたらしいのですが、 エジソンが京都産の竹を使ったと聞き、灯台もと暗しの思いに打たれたと聞 きます。)

エジソンはこの新しい白熱電球を売り出すために会社を設立、これが現在の GE(General Electric)社のもとになります。そしてこのGE社ではそのあ ともフ?ラメントの素材について研究を重ね、19xx年頃GE研究所のクーリ ッジが引出加工したタングステンによる丈夫なフ?ラメントを開発。これに よって電球の寿命は更に延びました。

この頃日本ではカラクリ儀右衛門(田中久重)の会社である東芝(当時は東 京電気)が独自に開発してきた白熱電球に関する技術とGE社と提携して得 られた技術をもとに安定した電球を製造、これに「マツダ?ランプ」の名前 を付けます。この「マツダ」は「松田さん」ではなく実はゾロ?スター教の 神「?フラ?マヅダ」からとられたものです。

この東芝はこのマツダランプに改良を加え、19xx年電球の内面にツヤ消しを 施したまぶしくない電球を開発、これが現在の電球の基本になっています。

現代のあかりとして電球と勢力を2分する蛍光灯はGE社のノ?マンにより 19xx年に発明されました。これが日本で最初に使われたのは19xx年、法隆寺 の壁画の写真撮影のときでした。

(法隆寺の壁画はカラー写真の発明前だったが、カラーフ?ルターを掛けて 三原色に分解して撮影された。おかげで、我々はこの失われた壁画を原色で 見ることができる)

この頃の蛍光灯には演色性が悪い(太陽光の元で見た時と色が違う)という 欠点がありましたが、その後天然色蛍光灯、昼光色蛍光灯、更には3波長式 蛍光灯が開発されて、かなり改善されてきました。

また、蛍光灯はエネルギーの光への転換効率が良いのが長所で、白熱電球に 比べてずっと小さい電力で同量の光を出すことができます。しかし最大の欠 陥は放電により発光させているため、商用交流の周波数50MHz/60MHzに対応 した周期100MHz/120MHz単位の光のチラツキが出ることです。このため蛍光灯 の下で長時間作業をすると目を悪くするという深刻な問題がありました。

近年これを改良したのが?ンバーターで、これは蛍光管に供給する電気の周 波数をあげ400MHzにすることにより、チラツキを小さくしています。子供の 勉強机などには少々高価でも?ンバーター付きの蛍光灯を設置したいものです。

さて、電球や蛍光灯はだいたい半年あるいは2~3年も使っていれば寿命が 来て切れてしまいます。基本的に照明器具はランブが切れることを前提に設 計されているのですが、切れないことを前提にしたあかりが一部で使われ始 めています。それがLED(light Emitting Diode)で、これは本来整流器 として使用されていたダ?オードがわずかながら電力を消費し、結果的に消 費された電気の一部が光になっていることに注目し、わざとその光をたくさ ん出すような半導体の組み合わせを探し当てたものです。LEDは弱い光し か出しませんが発熱が小さく非常に長い寿命を持っており、家電製品や情報 機器のパ?ロットランプや表示板などに多数使用されています。液晶デ?ス プレ?のバックラ?トもLEDですね。

10年ほど前から、?メリカでは「Akari」と呼ばれる新しい照明器具が注目 されています。これは日本の提灯(ちょうちん)をヒントに作成されたもの で、電球などの発光体を和紙で包むことにより、間接光のような柔らかい光 を得るものです。次第に日本にも逆輸入されてくるのではないかと思われます。

電信電話記念日(10.23)

10月23日は電信電話記念日です。これは明治2年9月19日(新暦換算して10月23

日)に東京横浜間の電信線の設置工事が始まったのを記念するものです。

電信技術を日本に紹介したのは、かの有名なジョン万次郎です。万次郎は元 は漁師で船が嵐にあい漂流していたところを?メリカ船に救助され、そのま ま?メリカへ連れて行かれたあと、1851年に日本へ帰ってきた人です。

世が世なら伊勢の大黒屋幸太夫らのように、鎖国日本で一生幽閉されて人生 を送らなければならなかった所ですが折りも折り、1853年にペリーが来航、 当初は幕府もオランダ語経由で?メリカ人と会話していたものの、やはり、 それではラチがあかないということになり、万次郎はこの後、貴重な英語通 訳として大活躍することになります。

万次郎は帰国した時に?メリカで見た電報や蒸気機関車を幕府に報告してい ますが、そのあと彼は1860年、咸臨丸に乗って今度は正式の幕府の使節の一 行として?メリカを訪れ勝海舟らとともに再度この進んだ技術を見てきます。

そして慶応4年(1868)、今度は開陽丸の建造と回航のためオランダに行った 榎本武揚が当地で電信機を購入して戻って来ますが、この折角買ってきた電 信機は維新の混乱のため使われないままになってしまいます。この現物は現 在も保存されています。

しかし榎本武揚が電信機を持ったまま函館五稜郭にたてこもっている間に明 治政府はやはり電信の必要性を認識し、その導入に動き出します。

明治元年(1868年)11月に寺島宗則(1832-1893)がこの計画の推進を指示され、 ?ギリスから技術者を招聘、まず横浜弁天灯明台役所から本河通り裁判所ま で760mの間に電信線を設置、明治2年8月9日、通信実験に成功します。そし

て9月19日(新暦10月23日)には同裁判所内に電信機役所を設置、ここから東京

税関まで32kmの電信線設置工事を開始しました。これを日本の電信事業の出 発点とみなして昭和25年『電信電話記念日』が設定されました。

こうして同年12月には東京-横浜間の電信線が開通し、12月25日(新暦3年1月

26日)には電報の取り扱いが始まりました。この電報の開始に先立ち、2年の 4月にはこれを記念して『天理可楽怖』(telegraph!!)という新聞が創刊され ています。

当時、この電線を通って電報が送られるという話を聞いて、みんなで電線の 回りに集まって眺めていたとか、電線に弁当をくくりつけたなどというエピ ソードもあります。また、この電報というのはキリスト教の手先で電線には 処女の血が塗られており、その処女は戸籍番号の1番の家から順に調達され ている、などという根も葉もない噂が立って電報局が襲撃されるという事件 なども起きています。

電報のお陰で幸運に恵まれたエピソードなども伝えられています。開通した ばかりの鉄道で新橋から横浜へ行こうとした親子連れが、新橋で乗る時に子 供だけ乗りそこねるという事故がありました。青くなった両親が品川で降り て駅員に相談した所、すぐに新橋駅に電報を打ち、新橋駅の駅員が無事子供 を保護して品川駅まで次の汽車で連れてきてくれたそうです。それを当時の 新聞は「鉄道より速い電報!」と大々的に報道しました。

しかし開通したばかりの電報は実際には故障が多く、仕方ないので頼まれた 電文を汽車で運ぶなどというのも最初の頃はずいぶんあったようです。また、 電報がスタートした当初から配達業務もやっていたのですが、初期の頃は大 きな町にしか電報局はありませんでしたので、そこから遠い地区には受け取 った電文を郵送していたということで、今の感覚から見るとややユーモラス とも思えるシステムで電報は稼動しはじめたようです。

なお、電話を発明したのはグラハム?ベルですが、電信の発明者はサミエル? モールスです。

1844年5月24日にワシントン-ボルチモ?間に電信を開通させたものですが、 この時彼が送った電文は有名で「What hath God wrought!」(神が造り給いし

もの)というものでした。モールスは英語の文字の出現頻度を考慮し、一番 よく出てくる文字を短い符号で表すという効率的な符号体系を提唱し、それ が広く採用されています。日本語のモールス符号は寺崎遊と吉田正秀らによ り電報業務開始の折りに定められました。

今ではほとんど使われなくなったモールス信号ですが電報の開始当初は全て これでやっていた訳で、突然それを打てる技術者が大量に必要になったため、 初期の頃は随分下手な電報技師も多かったようです。そのため本来の電文の 他に、電報局間で「コノヘタクソ」とか「マダウマクナラナ?ノカ」などと いう怒りの電文も飛び交い、それがエスカレートすると実際に会いに行って 殴り合いの喧嘩を始める者、殴ってやると行ってみたら相手が女性の技師だ ったため(当時、良家の娘が大量に技師になっている)それが縁で付き合い 始めて結婚した者などもあったそうです。恐らくあいた時間に電文で恋を語 り合ったりしていたでしょうから、現代のパソコン通信での結婚の先駆者と もいうべきでしょうか。

ツーバ?フォー住宅の日(10.24)

10月24日は2×4ということでツーバ?フォー住宅の日です。社団法人? 日本ツーバ?フォー建築協会が制定しました。24日は毎月あるのですが、 なぜ10月なのかはよく分かりませんでした。

ツーバ?フォーとは2?ンチ×4?ンチ(5cm×10cm)の角材を使用して家を建て

る工法なのですが、最も特徴的なのは太い柱を使わず、壁で家の重みを支える 方式を採ります。そのため本格工法(軸組工法)に比べて安価に速く家を建てる ことができる場合が多く、この工法が認可された19xx年代後半以降、家を建て

たいが予算が少ないという人たちに大きな人気を得ました。

ツーバ?フォーのもうひとつの利点は、外国産の部品を多く使用しているため デザ?ンが若い人の好みに合うものが多いこと、工法上、屋根裏部屋の設置が 容易であることなどです。

(初期のツーバ?フォー住宅は使用する接着剤がシックハウスの原因となった

が、現在ではそのような問題を起こす接着剤は多くの工務店では使用しない)

デザ?ンとスピードの問題を上げれば、ツーバ?フォーより更に手軽なものと して、軽量鉄骨工法というものがあります。積水ハウス?ヘーベルハウス? パナホームなどが採っているもので、速く建てられるということは、家を建て 替える時などに一時住まいの期間も短くて済むということで、嬉しい点です。

また本格工法で家を建てる場合は施工する工務店の技術力(とモラール)で 出来が大きく左右されるのに対して、ツーバ?フォーでは技術の差が出にくい ので、あまりよく知らない工務店に頼んでも、ひどい目に遭う恐れが少ない利点

があります。これが積水ハウスなどになると、問題の起きる余地は更に小さく なります。特に年収数百万円クラスの多くの庶民にとっては、こういう問題は かなり大きなものがあります。

ツーバ?フォー住宅は新築状態ではかえって本格工法より耐震性などが強い面が

あるのですが、壁で家を支えるということは、その壁が長年の雨風で傷んでくる

と、急速に劣化してしまう弱点があります。そのため住宅業界の外にいる一般の

人の認識としては、ツーバ?フォーは20年も持てば良い方、というのが多くの

見方のようです。そのため基本的にローンは10年以内で組め、と言う人もまた

多くいます。なお鉄骨工法の場合は、鉄骨の錆に注意する必要があります。

しかしどちらも本当はちゃんとメンテしていれば大丈夫のはずで、大正年間に ツーバ?フォーで建てられた東京駅や、明治年間にやはり同様の工法で建てられ

た札幌時計台などが今でもしっかりしているのは良い例です。鉄骨工法のメーカー

などもメンテさえしていれば50年とか60年もつと言っているようです。

基本的には家は建てたらそのまま放置ではなく、毎年の点検、それに5年に1度

程度の大規模メンテ(塗装の塗り直しや管系統?配電系統のチェック更新など) が必要で、その程度の予算は最初から頭に入れた上で家を建てないと、本当に ローン終了前に家が崩壊してしまう場合もあります。

テデ??ベ?の日(10.27)

10月27日は「テデ??ベ?」の名前の元になったTheodore Roosevelt大統領

(第26代,在職1901-1909)の誕生日(1858)で、これにちなんで「テデ??ベ? の日」になっています。

19xx年11月14日、大統領はミシシッピ州とル?ジ?ナ州の州境争いの調停の

ために同地に向かい、親睦を兼ねてLittle Sunflower River 近くでハンテ? ングを楽しみました。ところが大統領の獲物はゼロ。すると地元の人が、そう いう場合を想定して用意しておいた小熊を連れてきて「大統領、これを仕留め て下さい」と言いました。ところが大統領はそれを拒否します。「私は抵抗で きないものを撃ったりはしない」という弁が、周囲の人たちを感銘させました。 大統領は子熊を森に放してあげました。

この話を聞いたワシントンポストの風刺漫画作者Clifford K. Berrymanはこの

エピソードを早速1コマ漫画にして新聞に掲載しました(題名は「Drawing the Line in Mississippi」で州境争いの問題に掛けている)。

ニューヨークのBrooklynで酒場を営んでいたMorris Mitchom, Rose Mitchomの

夫婦は、この記事を目にして客寄せに2頭の子熊のぬいぐるみを作り店の入口 に飾ります。すると、酒場を訪れる客の中でこの熊が欲しいという人が続出、 夫婦はせっせとぬいぐるみを作っては客に売っていたのですが、その内こちら の売上の方が酒場の売上より大きくなってきたため、とうとう酒場をたたんで、 おもちゃ屋さんを作り、人を雇って大々的に作り始めました。

一方、ド?ツのMargarete Steiffは、以前からおもちゃ屋さんを営んでいまし

たが、この時期新しいおもちゃを作ろうとネタ探しに動物園に行っていて、子熊

のぬいぐるみを作ることを思いつきます。彼女はこれをラ?プチヒのフェ?で 出品しますが最初は全然売れませんでした。ダメかなと諦めかけていた所に、 たまたま?メリカ人の商人が通りかかり、本国でちょうどMitchomの子熊が話題

になっていたことから、これも売れると直感。その場で3000個もオーダーしました。

このMitchomの会社と、Steiffの会社がテデ?ベ?のルーツです。なお両社の

子熊人形は特に名前は付いていませんでしたが、19xx年にPlaythings Magazine

が、この子熊人形のルーツはルーズベルト大統領のエピソードだということで、 大統領の愛称 Teddy を採って「Teddy Bear」の名前が生まれました。

速記記念日(10.28)

10月28日は速記の日です。

これは日本で最初に速記文字を開発した田鎖綱紀(たくさりこうき,1854- 1938)が1882年10月28日に日本橋の「小林茶亭」で速記法の講習会を開いた

のを記念して定められたものです。

速記法は議会や討論会?会議などの記録を取る手段として発達してきました。 ヨーロッパでは意外と歴史が古く、古代ギリシャでも使用されていましたが、 日本での導入は田鎖式が最初と思われます。

現在国内には80種類ほどの速記法があると言われます。速記法の検定は速 記記録したものを一定時間内に反訳するところまでの正確度を問われるよう になっており、速記の方式は何でも構いません。

通信教育で有名な早稲田式は、姓名判断の元祖として有名な熊崎健翁が考案 したものがベースになっています。衆参両議院で使用されている速記は、そ れぞれ衆議院と参議院の速記者養成所で訓練を受けて試験に合格した人たち が行っています。衆議院と参議院では速記文字に違いがあります。日本では 1890年の第一回帝国議会からきちんと速記録が残されています。

速記文字の反訳作業はコンピュータ処理になじむもので、?メリカではかな り技術が発達しています。更にはソクタ?プによる入力とこのシステムを直 結して、ニュースにリ?ルタ?ムで字幕を入れる試みなども行われています。

会議関係以外では落語の速記録が有名です。怪談噺で知られる三遊亭円朝も 「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」などの作品を速記で記録させ出版しました。

近年では速記も技術者不足から次第に録音で記録して後でテープ起こしを依 頼する、という方式に次第に移行していく傾向が見られます。裁判所は昨年 から速記者の新規募集を中止しました。

地方議会でも既に速記者を置いていないところもありますがテープ不良で記 録が一部取れなかったなどの事故も起きているようです。速記者は通常2名 置いて相互チェックをしていますが、テープも2セット置いてもらいたいも のです。なお、国会の速記者は発言のみでなく、ヤジや発言者の態度?様子 なども同時に書き留めています。これはヤジが元で審議が紛糾することもあ るからです。

また、速記者は速記文字から通常文字への反訳の際に、固有名詞や専門用語 の調査のほか、簡単な文法ミスの修正、不要な単語のカット、言い間違いの 修正、なども行います。この作業はテープ起こしにも共通の作業で「整文」 といいますが、ここも技術者の腕の見せ所になります。