世界一初恋
第1話
First impressions are the most lasting.
小野寺:あっ、おっ…。あっ、はっ…! 嵯峨先輩。ぼんやりしていた。いつも遠くから見ているだけに
しようと、気を付けていたのに。あ゛~~っ! スイマセン。本、どうぞ。
嵯 峨:なんで、俺の名前知ってんの?
小野寺:中高一貫校で、3年間見ていただけ。今年で4年目。ずっとこのまま、心に隠しておこうと決
めていたのに。先輩を目の前にした途端、体中から、気持ちがボタボタとこぼれ出て、必死で拾おうとしているのに、それでも、それでも溢れ出てきて、好きです。好きです。好きです。先輩が、好きなんです。あっ! えぇっと、その……。おっ、んんっ……。全てが純粋だった、あの頃は…。そして十年後。はあ? 小野寺律、25歳。すっかりやさぐれた大人になりました。
小野寺:少女漫画に配属? ちょっ、待ってください。面接の時きちんとお話したはずです。
希望は文芸で、前の会社でも文芸担当編集だったって。
女社員:はあ…。
小野寺:もう一度確認していただけませんか?
女社員:でも、こちらに、小野寺律さんを中途採用で、丸川書店少女漫画部門に配属すると。 小野寺:ああ…。
女社員:どうぞ。編集部にご案内します。
小野寺:う゛…。
女社員:うふ、どうぞ。
小野寺:最悪だ。俺は文芸やりたくて前の会社辞めたのに。それがなんで漫画なんだよ。大体にお
いて、男で少女漫画って、いわゆる窓際コースじゃないですか?
女社員:あらぁ、そんなことないですよ。確かに以前は、会社のお荷物だったみたいですけど、いまの
編集長が就いてから、一年で出版部門一位の成績ですし。このあいだも社長賞もらってましたよ。
小野寺:へぇ。
女社員:それにね、編集さんたちが揃いもそろってイイ男ばかりなんですよ。
小野寺:えっ? 編集、全員男性なんですか?
女社員:えぇ。女子社員とか、結構狙ってる子多くて。周期開けとか、こう、素敵フェロモンが漂って
るというか。
小野寺:シュウキ?
女社員:まあ、見ていただければわかりますよ。
小野寺:正直、今すぐにでも辞めたいのだが、現実問題そういうわけにもいかない。とりあえず2週 1
世界一初恋
間通って、辞める理由を見つけてやる。
女社員:すいませ~ん。総務のものですが、今日から配属される方をお連れしました。
男社員:ああ、エメラルド? あっち。
女社員:どうも。
小野寺:どうせ辞めるのなら、そのやり手編集長は見ていてもいいかなあ。次の会社で役に立つか
もしれないし。普通、立て直しなんてなかなかできるもんじゃない。市場の動向を確実に見極めて、よっぽど綿密なプランを立てたに違いない。
女社員:ええっ!?
小野寺:初めまして。本日よりこちらに配属されることとなりました、小野寺律です。そう、的確かつき
ちんとした、きちん、と……。
女社員:ごっ、ごめんなさい。周期間違えたみたい。じゃ、頑張ってください。
小野寺:ええ~っ!? あ、あの、ちょっと~! すいません。あの、エメラルド編集部って……。 男社員:あぁ~!
小野寺:あの~っ!
男社員:僕たちは違うけどね。
小野寺:なぜ避ける? うっ…! 臭気って、これか? 確かに運動部のロッカーの匂いがするけど。
あ、あの、すみません。あのぅ……。
木 佐:あっあっ……
小野寺:ええ~~っ!?
木 佐:ん何いぃ?
小野寺:こっちが聞きたいわ。いいえ、その。今日からお世話になるものなんですが…。
木 佐:ああ、今日からだっけ? 高野さ~ん、新しい人~。高野さ~ん、
高 野:うっせ~なあ。ちっ。一回言えば聞こえてんだよ。
小野寺:へ、編集長? これが?
高 野:何、バイトの子?
小野寺:社員です。契約ですが。
高 野:名前は?
小野寺:小野寺律と言います。
高 野:あぁ。そういやぁ、そういうの来るっつってたっけ…。
小野寺:おいこら、そういうのってなんだよ。よろしくお願いします。
高 野:俺、面接に立ち会えなかったんだけど、編集経験者だったよな?
小野寺:はい。小野寺出版で3年間。
高 野:少年誌? 青年誌?
小野寺:あぁ、いいえ。自分は、ずっと文芸をやってまして。
高 野:文芸?
2
世界一初恋
小野寺:はい。なんかこの人…。
高 野:漫画はまるっきり初めて?
小野寺:はい。いやいや、第一印象で人を判断すべきじゃ…。
高 野:使えねえ。
小野寺:うっ…! 最悪だろ、こいつ。
美 濃:高野さん。代原、あがったそうです。
高 野:わかった。来い、新人。
小野寺:えっ?
高 野:仕事を覚えてもらう。
小野寺:あっ、ああっ…。
小野寺:代原って、代理原稿のことですよね? 誰か落としたってことですか?
高 野:そう。
小野寺:今月号ですか?
高 野:そう。
小野寺:あ、すいません、発売は?
高 野:七日後。
小野寺:七日後? 店頭出しが? で、今代原できたって、いつから描かせてたんですか? 高 野:三日前。
小野寺:マジかよ…! あのう、代原って、ストック無いんですか? 新人とかの。 高 野:腐るほどあるが、使えねえのばっかでな。
小野寺:でも、代原だから、仕方ないんじゃ…。
高 野:編集であれ作家であれ、代原を穴埋めとしか考えてないのなら、そいつはバカだ。 小野寺:あっ…!
高 野:「空いた穴には原石でいいからダイヤを突っ込んどけ」。常識だろ。
小野寺:それはそうなんだろうけど…、あくまでそれは理想論だろ…。
高 野:お疲れさん。「三日で仕上げろ」なんて言って悪かった。
作 家:いいえ、大丈夫です。時間ならあるんで。
高 野:画材、持って来てる?
作 家:あ、ああ、はい。
高 野:ここのキスシーンさぁ、もうちょっと、ドラマチックに描けない?
小野寺:おっ…。
作 家:えっとぉ、こんな感じですか?
高 野:いや、このアングルから見た感じで。
3
世界一初恋
小野寺:描き直させるつもりか? 印刷所待たせてるんだろ?
高 野:いや、そうじゃなくて、こっち。キスしたことくらいあるでしょ?
作 家:うっ!!
小野寺:おぉい、何言ってんだよ、セクハラだろ、それ?
作 家:う゛…。
小野寺:あのぉ、いまのままでも大丈夫じゃないですか? 充分綺麗に描けてるし、時間が無い…。 高 野:もっと良くなるから言ってるんだ。素人は黙ってろ。
小野寺:素人?
作 家:あ、でもぉ、その、自分がしても自分は見えないから。あはははっ…。
高 野:確かにそうだな。わかった。手本見せるから、急いで描いて。
小野寺:あぁ、資料ですよね? 俺、行きます。
高 野:こっちから顎見える角度で。ちょい、煽り気味にして。
小野寺:あのう…。えっ? あっ……。んんん? あ゛~っ……!!
高 野:描けた?
作 家:うぅ、うぅ……。
高 野:じゃ、急いでペン入れて。
小野寺:あっ…、な、何してんですかっ、あんたっ!?
高 野:何って、仕事だろ。
小野寺:ぐっぐぐ…、最悪っ…!
小野寺:とりあえず2週間、多分、もたない。なんとなくわかったこと。エメラルド編集部は、変人の集
合体らしい。他編集がみな避ける。少女漫画に対して頗る情熱を持っているらしい。情熱? あ~確かに情熱的だ。自ら体張ってモデルになるくらいだもんなあ。あぁ……。まさか初日にセクハラされるとは、思いもしなかった。胃が痛い。文芸をやりたかったのに。宝物にしたくなるような本を作りたいだけなのに。父親が出版社の社長ということもあってか、昔から本が大好きだった。だから、なんの他意もなく、親の会社に入社した。入ってすぐに大物作家の担当になり、プレッシャーはあったが、うれしかった。でも、本を作ることは、思ったよりもずっと時間がかかる作業で、特にハードカバーは、一冊一冊が芸術作品みたいなものだった。作家との打ち合わせ、デザイナーとの相談。表紙はどんなイメージで、帯は? 栞は? 何色にする? そうやって心を込めて作った本が売れることは、何よりの幸せだった。それだけだったのに。 編集1:また今月の一位、小野寺の担当だって。
小野寺:んん?
編集2:ウソっ、またっ?
編集1:つ~かコネ入社ってマジ楽でいいよなあ。
小野寺:はっ…!
4
世界一初恋
編集2:言えてる。うちらと違って新人のクセに、いきなり大物作家担当じゃん? こっちはいくら頑張
っても下っ端しか担当させてもらえないのにさあ。ズルイよねえ。
編集3:売上だって、あれ作家と営業のお陰じゃん。
編集1:何もできねえクセに、原稿入稿しただけで評価されるのって、わけわかんねえし。 編集2:やってらんないよねえ。
編集3:ねえ。
小野寺:決して…、決してコネで入ったつもりはなく、自分なりに必死で頑張っていたつもりで…。昔
の自分なら、ショックで立ち直れなかっただろう。でも俺はこのときから既にネジ曲がっていたので、だったらこんな会社とっとと辞めて、他社でミリオンセラー本作ってやればいいんだろう~っ!! と、逆ギレした。ああ。我ながら性格が歪んでるとは思うが、いや、これだって別に好きでこうなったわけじゃない。先輩が、好きなんです。あの時から、物事は、まず最初に最悪の結末を考えるようになった。そうすれば、現実で多少傷ついたとしても、それが深手になることはない。っだあ~はあ~!! いかんいかん!! もう顔すら忘れた人間のことなんか考えるなっ! 問題は、次の就職先のため、いかに上手くここを辞めるかだ~っ!
高 野:おい。
小野寺:はいぃっ! あっ、あぁっ…、入稿、終わったんですか?
高 野:お陰さまで。
小野寺:おいっ、さっきのキスは謝罪もなしかよ。
高 野:ふうっ…、さっき上司に確認したんだが、あんた、小野寺出版の御曹司なんだ?
小野寺:うっ…、会社と俺は関係ありません。
高 野:文芸希望がうちに配属されたの、不満?
小野寺:え~、思いっ切り! いえ、なんというか、その、少女漫画って、いわゆる恋愛重視じゃない
ですか? そういうの、自分はあまり得意じゃないというか、良いイメージを持って無いというか…。そもそも恋愛とかよくわかんないんで。
高 野:やる気ねえなら、邪魔だから辞めてくれ。
小野寺:うっ…!
高 野:世の中、好きなことを仕事にできるやつなんて、どんだけいると思ってんだよ。
小野寺:それはっ…!
高 野:誰だって最初は素人なんだ。
小野寺:あっ、あれっ? ひょっとしてこの人、俺を励ましてくれているのか?
高 野:ま、使えねえやつは何しようと使えねえが…。
小野寺:ブチ殺す!
高 野:他のやつら今日はもう帰ったから、あんたも帰っていいし。
小野寺:お~の~で~ら~です。
高 野:あのさぁ。
5
世界一初恋
小野寺:はいぃ?
高 野:オマエと前に、どこかで会ったっけ?
小野寺:さあ…。
小野寺:うぅっ…、ゴミ集積所。はあっ…。んっ…、ここで負けたら、前と同じ。必死で努力して使えな
いと判断されるのなら、それは自分のせいだ。だけど、何もしていないのに使えないやつと思われるのなら、それは自分が許さない。アイツを見返してやる。
女社員:帰りい?
高 野:打ち合わせ。じゃ。
小野寺:うぅぅっ…。ふわぁ~っ…、ダメだぁ、眠い。一晩中少女漫画百本ノックはさすがに応える。そ
してゴミ溜め編集部に一日中いなきゃいけないのかと思うと、はぁ、今から胃が…。うぅ…、おはようございます。
木佐&美濃:おはよう、小野寺くん。
小野寺:あ、すみません。間違えました。エメラルド……。
木 佐:はっはっはっは。何言ってんだよ。ここだろう? 昨日はほったらかしにしてゴメンねえ。 美 濃:デッド入稿したからもう大丈夫だし。漫画は初めてなんだってねえ。でも平気だよ。 木佐&美濃:ちゃんと教えるし。
小野寺:あ~、すいません。ちょっとトイレに。
男社員:ひい~~っ!! やめてくれっ! 俺はエメ編じゃないっ!
小野寺:う~っ! わかってます。というか、すいません。俺視力は良いはずなんですが、あれはなん
ですか?
男社員:え?
小野寺:昨日はゴミ集積所だったと記憶しているんですが、綺麗に片付いているのは良いとして、な
ぜ死体が爽やか青年団になっているんですか? というか、あのピンクまみれの編集部は一体なんなんですかあ?
男社員:あれは周期開けでさ。
小野寺:んな、何なんですかあ、それ?
男社員:ああ、ほら。二十日大根ってあるだろう? 種撒いて、二十日くらいで収穫できるの。 小野寺:はあ…。
男社員:あの人たち、大体二十日周期で本作ってんだよ。だから、こんな感じで。そして、全てが終
わると、やつらは羽化する。
小野寺:で、あのピンクの編集部は?
男社員:ほら、「郷に行っては郷に従え」とか言うだろ? 読者の気持ちになるように、高野さんが、 6
世界一初恋
「まずは、環境から乙女の気持ちに近づけ」って方針でさ。んま、まあ、実績ある編集部だか
ら、いて、損はないと思うよ。いろいろと伝説を作ってはいるけど…。
小野寺:伝説? 何ですか、それ?
男社員:お~お~俺にそれを言わせないでくれ~っ!!
小野寺:はぁ?
男社員:とりあえず頑張ってな。
小野寺:わっ、あ、あのう……。
男社員:あ~、そうだ。あと、あの人たち、乙女部って呼ばれてるから。
小野寺:えっ…、乙女部!?
小野寺:はぁっ…。
木 佐:ハ~イ。
美 濃:ヤッホー。
小野寺:はぁ…。
美 濃:これ、写植シートね。最近はデジタル入稿だから、写植貼ることもほとんどないけど。写植貼
りは基本だからね。あ、そこ曲がらないよう気をつけて。
小野寺:はい。
木 佐:「写植の曲がりは心の曲がり」って言うんだぜ。
高 野:木佐、オマエこの前曲がってたぞ。
木 佐:うそっ! マジ? どこ?
高 野:今月号12ページ3コマ目。
美 濃:どうかした?
小野寺:この作家さん、時間なかったのかなって。
美 濃:ええっ? どうして?
小野寺:このページ、見開きに渡って白いし、このコマなんてトーンとセリフだけだし。これじゃあまる
で手抜き……。
高 野:バカモノか~~っ!!
小野寺:ぐわはっ! 何するんですか~!?
高 野:バカヤロー! それは乙女のキュンゴマだっ!
小野寺:きゅ、キュン!?
高 野:そうだ。よく見ろ! 今まで意地の張り合い同士だった主人公と相手の男が、やっと素直に
好きだという感情を認めるシーンだ。一人称の場合、読者は視点に感情移入しやすい。だから少しずつ、読者に来るぞ来るぞという期待感を持たせて行くことが重要だ。例えば、感情の高まりと共に、写植をでかくして、そしていい具合に高まったところで、一気に落とす。
木佐&美濃:ワ~オ! このフィーリングわかるだろう~?
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小野寺:わかりません。いやあ、言いたいことはなんとなくわかる。しかしそういうシーンになると、な
ぜ画面が白くなり、トーンを多用し、風が吹いているわけでもないのに髪や服がなびき無駄にキラキラしているのかがわからない。それに、いくら漫画とはいえ、主人公がこんなに簡単に幸せになって良いもんだろうか? いやあ、漫画だからこそなんだろうが、現実ほど残酷と思うのは、自分がマトモな恋愛をしてこなかったせいなのか。「一生懸命は報われる」とか、「想いは必ず通じる」と、信じていた時期もあった。それがまやかしと気づいたことは、幸せなのか不幸なのか。それが大人になるということだったのなら、不幸ではないが、ひどくつまらないことだと。はぁ…。というか、別に俺はネガティブなわけじゃないけどな。背中を向けて、前進しているだけ。んっ…、あっ…!
高 野:やっぱりオマエ、どこかで会った気がするんだが…。思い出せん。
小野寺:勝手に触るなよ。そりゃあ同じ都内に住んでたら、どこかですれ違ってたかもしれないでしょ
うし。それこそ同業者だから、印刷所とか。
高 野:あ~、ま、そうかもな。
木 佐:あれ~、律っちゃ~ん?
小野寺:ん?
木 佐:漫画目録なんか、どうすんの?
小野寺:律っちゃん? 漫画、初めてなんで、とりあえず自社の作品を、一から暗記しようかと。 木 佐:ん、マジでっ!? 暗記って、うちの本、何千冊あると思ってんの~っ!
小野寺:いやぁ、文字で覚えるだけじゃなくて、実際、本読んでいるんで。
木 佐:いや~、ムリムリっ! 俺には絶対ムリ~っ!
小野寺:あぁ、俺、学生の頃、図書室の本、全冊読むとか、普通にしてたんで。
高 野:んっ…!
木 佐:ほお~。
小野寺:おっ。
木 佐:あ…、おぉ?
小野寺:あ、何か?
高 野:別に…。
小野寺:なんだよ。どうせ作品暗記なんて、やって当然と思ってるんだろ。
女社員:お疲れ様~。
男社員:お疲れ~。
小野寺:使えないとは思わせない。高野さんだけには…。
〈完〉
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世界一初恋
丸川書店用語集。ここでは丸川書店で使われる用語を説明していきます。第1回目は「デッド入稿」。「デッド入稿」とは、本や雑誌を作るための通常の締切りの日程を超えた印刷所に怒られる入稿日程のこと。この日を超えると雑誌や本などへの掲載ができなくなる日のことを言う。絶対に遅れてはいけないのだ!
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