雪国 读后感

梦里花落知多少——读《雪国》有感

天高云淡的雪原,热情温柔的艺妓,这是我对遥远的雪国大地最初的记忆。没有世俗的恩怨,没有连绵的战火,只有无尽的的欢乐和夜夜的笙歌,秀色可餐的佳人,伴着如画的风景、以及那让人流连忘返的温泉,不禁把我的思绪带到了陶潜笔下那宛如仙境的世外桃源,原以为这样的状态会一直持续下去,原以为作者要制造出大和版的桃花源,可谁曾想,到头来涛声依旧世事依然,伴着叶子的与世长辞,一切又回到了圆点,再也没有留恋的斜阳,再也没有倒影的月亮,再也没有醉人的暖风,转眼,消逝在云间,而岛村不得不离开自己眷恋的地方,回到闹市,回到自己不愿面对的地方。不知道多年以后伴着和煦的微风、西下的斜阳岛村是否也有过这样的思考:叶子的离开,是风的追求,还是树的不挽留?

穿过岁月的河流,还有多少能够铭记,还有多少能够沉淀?同一时间已没了相同的河流,同一河流已不见了往日的宁静。岛村先后三次来到雪国,不止一次的说这是“徒劳”,在那个万马齐喑的年代,在那个战火连天的岁月里,接受到先进思想的、热爱和平的知识分子似乎对世界失去了幻想,正如电影《毕业生》里面所说的那样,“迷茫充斥着世界,让我寸步难行,我只能低下头去静静的思考”,也正因为如此,作者才幻想着这样的世界的存在,同时他也意识到这是虚无的、飘渺的、不可能永远存在的,为此,他感到担忧和彷徨,让他不敢相信,也不愿意相信。

初读此文,觉的篇幅冗余杂乱,不知何从下手,让人有点读意识流小说的感觉,可随着故事的深入我才渐渐意识到这是作者有意为之,他似乎在用这样的方式掩饰自己内心的孤寂,不断的观察周围的事物来让自己彷徨的世界安静下来,似乎只有这样才能让自己得到内心世界的释放。《雪国》的主要内容是男女主人翁的对白,或温馨、或直白、或随意、或暗示,字里行间不难看出岛村的无奈与不耐烦,这更让人联想起了《少年维特的烦恼》里面维特的“烦恼”,对未知世界的恐惧和时局的悲观可能是作者写此文的重要原因所在。

全文的结尾处提到了银河,说“岛村无法相信成弧状横跨太空的明亮的光带竟会如此昏暗。大概是星光比朦胧的月夜更加暗淡的缘故吧。可是,银河比任何满月的夜空都要澄澈明亮。地面没有什么投影。奇怪的是,驹子的脸活像一副旧面具,淡淡地浮现出来,散发出一股女人的芳香”。这就是全文的主旨所在,作者用银河、星斗预示着新的转机和先进知识分子,他希望并且坚信这种黑暗终将会过去,新的世代终将会滚滚而来,正如北岛《回答》里所说的那样:新的转机和闪闪星斗正在缀满没有遮拦的天空,那是五千年的象形文字,那是未来人们凝视的眼神。

 

第二篇:雪国への感想文

『雪国』の読書感想文

師希霞(20103760)

『雪国』を読んでは、頭にはいろいろな美しい画面を浮かんでいた。そして人物の感情に深く感動された。やはり、川端康成はすごい。また、『雪国』は読むたびに、「文学」というものは、正にこういうものだと思ってしまう。次のように、私は『雪国』の中のいくつの場面についての自分の考えをちょっと言いたい。

冒頭の場面、汽車の中で窓ガラスごしに見る葉子の顔と野山の明かりが重なった時に、島村は、「なんともいえぬ美しさに胸がふるえた」と書かれていた。葉子の顔に魂が入った瞬間かもしれない。しかし、その風景にしても、島村は直接に葉子を見ているわけではなく、「不思議な鏡の中」の風景として見ている。現実の人間存在としての葉子を見ているのではなく、島村は、あくまでも、島村自身の内面世界という妄想の中で、偶然に、妄想の中の葉子の顔に魂が入った瞬間、美しさにふるえたかもしれないと思った。

島村が雪国を去ると決める場面に、「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた」とあった。『雪国』では、それまでは、葉子に「木魂」という言葉が何回も使われて、純粋さや、無垢さや、母性らとからめて、形容されていた。しかし、『雪国』の中で、この場面だけ、駒子に、葉子とは違った漢字をあてた「木霊」という言葉が使われていた。葉子と、駒子という二人の女性が重なったような気がした。 また、『雪国』では、冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が有名だが、島村が長いトンネルを抜けてやってきた雪国から去る決意をした時に、「胎内くぐり」の村を訪れていることが印象的だ。島村自身は「なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉宿に戻った」とあったが、島村自身は何をするために行ったのか分からなくても、小説の中に書かれている以上は、「胎内くぐり」の村を訪れたことに意味があるわけで、雪国から去るために「胎内

くぐり」が必要であり、いわば、「胎内くぐり」は儀式なのかもしれないと思った。幻想の世界へトンネルをくぐって入って、そこから出るのにも、またトンネルをくぐっていた。しかも、今度のトンネルは「胎内」だ。もしかしたら島村にとって、「雪国」は、母のようなもので、いわば、母胎回帰なのかもしれないとも思った。

そして、火事の場面で、村人として火事場へ向かう駒子から、「あなたは来なくていいのよ」と言われ、島村は「言われてみればそうだった」という場面がある。火事場へ向かう駒子は、踏切の前で足を止めて、「天の河。きれいねえ」とつぶやいて、その空を見上げたまま走り出す。島村が火事場に到着すると、駒子がいつのまにか島村のそばに来て島村の手をつかんだ。島村の手は「温まってい」だったが、駒子の手は「もっと熱かった」だった。それで、「なぜか島村は別離が迫っているように感じた」とあった。島村も、駒子も、同じ天の河を見上げる感性を持つ、いわば、同類だと思った。しかし、二人の境遇は違い、生き様にも温度差があった。また、駒子は前近代的な女性かもしれないので、自我や、個人や、他者や、「私」というものへの意識がないのかもしれない。しかし、頭はよくて、生活力があって、何よりも島村を心で理解する女性だ。無気力とは違うと思うが、島村は、感情というものを持つことができなかったり、生活をする必要がなかったり、ものの哀れを愛してしまう。一方、駒子は、島村と同じ資質を持ちながらも、自分自身でそれに気が付いていることはなく、自分自身を理解することもなく、それでも、島村を愛し、そして、ひたすら生活をしよう、人生を生きようとした。駒子は、無意識のうちに、その熱い命の力で、島村に何かを訴え続けていたのかもしれないと思った。『雪国』は、そんな駒子の姿と、そんな駒子に引かれるが、同時に葉子にも引かれて、結局、どうにもならない、また、自分からはどうにかしようとすることができない島村の姿を描き出しているのかもしれないと思った。

とにかく、これは日本の文学の中の精華だ。作者はずば抜けている創作の技巧を通して、物事の自身の意義と存在の価値を表して、私は『雪国』の独特な美しさをちょっと分かれて、さらに、日本式の精神をかすかに感じされた。

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